持ち前

「ライフデザイン賞」受賞記念キャンペーン応募です。
娘が生まれてから1年半、授乳服のモーハウスを愛用しています。
よろしくお願い致します。


 「持ち前」
 
 「持ち前のおっぱいでいいね~」と、祖母が言った。私はにやにやしながら授乳服で颯爽と娘に乳をやった。
 娘にとってはひいばあちゃんだ。「『持ち前』ね~」と笑ってしまった。「おばちゃんが抱っこするとどんな子でも泣き止むんだから。」と、自慢げに言う祖母は、私の母を筆頭に6人の子を育て上げ、その上11人の孫に、7人もひ孫がいる。内ひ孫は男の子3人だ。毎日やんちゃな子達がバタバタとしていて、これじゃあ歳も取れまい。80歳を過ぎても元気はつらつとしている。
 そんな祖母でも骨休みは必要、という訳で、宇都宮から私の住む岐阜県は恵那市までやって来た。遠方なので、なかなか遊びには来られないが、今回で3回目だ。
 温泉の食堂、行楽地のベンチ、どこでもおっぱいをやる姿を見た祖母が、「今は便利なものがあるんだね~。」と、着ている授乳服を見て言った。すかさず私は、授乳服の中を見せ「見て~。この下着穴が開いてるんだよ。」と、説明をした。ふんふんと感心をする祖母。
 そりゃそうだろう。昔は下着をたくし上げ、或いはボタンをはずし、ペロンとおっぱいをむき出しにしてあげなくちゃならなかったのだから。それでも昔は産後の女性は家にいる事の多かった時代、それに、みんながみんなおっぱいポロンだったから、特に気にもしなかったという。
 ところが祖母の時代から母の時代へと移り変わり、昭和30年代後半からだろうか?粉ミルクが奨励され、母乳育児が減り、それに加わり、働く女性の進出で、あったかおっぱい育児が減少して行ったのだろう。
 そして、今、また新たに時代が変わり、母乳育児が見直されている。良き時代の流れに乗り、諦めずに、人前で恥ずかしいと思いながらも頑張っておっぱいをあげた息子の時。3年半前の事を思い出す。
 息子がなかなか私の乳首に吸い付くことが出来ず、母乳育児を挫折しそうになった時「おっぱい先生」と勝手に呼んでいる助産師さんに出会った。母乳育児の大事さを学び、なんとしてもこの子におっぱいをあげたいという一心で、我が子と共に泣きながらおっぱいをあげた日々。「ちゅっ」っと、赤ちゃんが吸う事が大事と教わり、10分置き15分置き30分置き、なんとか息子におっぱいを覚えさせようと、泣く度にひたすら吸わせた。準備の出来ていない乳首は切れた。それでも歯を食いしばりながらもおっぱいをあげ続けた。主人が見かねて「間で粉ミルクをあげればいいんじゃないの?」と言って来ても、もうひと頑張り、もう1回だけと頑張った。1ヶ月の山を越え、3ヶ月経つ頃にはおっぱいも起動に乗った。あの時の事を思い出すと、胸が締め付けられる。
 私は乳飲み子を育てながらも、月に何度か講談の仕事をしていた。乳を搾り冷凍し、息子を義母に託し、東京に出かけていた。息子に飲んでもらえない乳は、パンパンに張り、行く先々のトイレで搾っては捨てて行った。この情けなさと言ったらない。トイレの中で小1時間が過ぎて行く。そこまでして仕事がしたいのか?講談師として一生やって行くんだから、何も乳飲み子を置いてまでやらなくてもいいじゃないか?自問自答のトイレの中。
 それから2年の月日が流れ、私は、第二子を出産した医院で、モーハウスのパンフレットを見付ける。体に光が差し込んだ。隣で眠るちっちゃな娘を見ながら、すべての授乳のストレスが解放されて行くのを感じた。
 自宅に戻ると、モーブラ、穴あきTシャツ、授乳服と、思いつくまま何点も購入した。形は整った。あとは1ヶ月の山を越えるところまで頑張ろう。目標定まり、おっぱい開始!息子が道を作ってくれていたお蔭と、娘の頑張りで、乳首が切れる事無く、今に至っている。
 ところがそれは同時に、哺乳瓶が嫌いな子になっていたのだ。「それならば、一緒に東京に連れて行こう」という結論になった。何しろ、モーハウスの授乳服。新幹線の中だって、喫茶店だって、楽屋だって、どんなにたくさんの人が居ようとも、へっちゃらでおっぱいをあげられる。
 たくましくなった私は、おんぶやスリングで仕事をするモーハウスの社員の姿に感動し、ついにはおんぶをして仕事をする事にした。題して「おんぶで講談」。良き理解者と、楽しんで下さるお客様の元で、これまでに3回、娘を背負い講談をやった。前代未聞のこの姿を私は誇りに思う。あるがままを受け入れる事へと私の意識を変えてくれたのはモーハウスという会社だ。心からありがとうを言いたい。
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by hinihiniaji | 2007-07-16 03:33 | 息子と娘と赤子


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